ファム ・タン ・ティエン ・ドゥク

    PHAM     TAN     THIEN     DUC

Profile & Message

2015年 フエ工業短期大学機械工学科卒業

2016年 日本語学校に入学するため来日

2017年 JLPTN2に合格

2018年 西武文理大学サービスマネジメント学科に入学

2022年 ビザサポートの専門会社に入社

ペットのミソちゃんと一緒に暮らし始める

2023年 日本レストラン「ゴン屋」開店

私たちが達成できていないことは多くの場合、私たちに能力がないからではなく、私たち自身の考え方によって制限されているだけです。最初から自分には無理だと思ってしまうと、すべてがとても難しくなってしまいます。でも、絶対にできると思って挑戦してみると、人生はその目標を達成する方向に進んでいくはずです 

突然の日本留学の決断

高校卒業後、両親のアドバイスに従ってフエ工業短期大学の機械工学科を受験し、入学しました。両親が2人とも機械工学の業界で働いているため、この専攻を勉強しておけば、卒業後は両親の会社に入社し、安定した仕事につけると考えていたそうです。高校を卒業したばかりで、自分は何が好きなのか、何ができるのかがまだ分からなかったので、とりあえず両親の言う通りにしました。しかし、この大学に通ってはっきりと分かったことは、自分が全くこの分野に合わないということです。


もっと自分に適した分野を探した方がいいか?と悩んでいた時期のある朝、母と行ったカフェで、たまたま日本留学センターで仕事をしているある女性と出会いました。彼女から日本に留学したら体験できることの話を聞いて、とても興味を持ったので、両親に留学させてほしいとお願いをしました。


幼い頃からいつも両親に甘やかされていた私が、いきなり留学したいと言い出したのを見て、両親は大反対でした。今まで行ったことのない、そして言語も全く分からない国で、どうやって一人で生活できるのかと心配したからです。しかし、私が日本留学に対しての考えや期待していることを説明したら、両親も徐々に耳を傾けてくれるようになり、最終的には同意してくれました。それから私は日本語を勉強し始めました。


学校探しや書類の準備、ビザの申請は非常にスムーズに進み、2016年にビザが下りました。当時、私はまだ『みんなの日本語』の第10課までしか勉強していませんでした。日本への出発の日、両親は空港で見送りの時まで心配した顔をしていました。息子と離れるのが悲しかったこともあると思うが、何より知り合いが1人もいない国で、息子がちゃんと生活できるのだろうかと心配したのだと思います。そんな両親の気持ちとは正反対に、私はこれから訪れる新天地のことでずっとワクワクしていました。

日本語上達のためレストランのアルバイトに挑戦

来日して初めの頃は日本語があまりできないので、とても苦労しました。日本語能力の問題から、日本語をほとんど使わなくていい運送会社での荷物の積み下ろしの仕事しか応募できませんでした。職場には日本人もいましたが、厳しくてあまり話さない人が多かったので、私の日本語はほとんど上達しませんでした。それでも、なんとか頑張って仕事を続けようと思いました。そんなある日、仕事でやり方の分からないことがあったが、日本語があまりできないので、どう聞いていいか分からず戸惑っている最中に、一緒に働いていた日本人が怒った態度で荷物ごとを私に投げつけました。この出来事をきっかけに、私は自分が変わらないといけないと感じました。日本語ができないからと言ってこの環境に留まり続けることは良くありません。日本語をもっともっと頑張って上達させ、より良い環境がある仕事に変えなければなりません。そうでなければ、いつまで経っても、私は成長できないと思いました。

悩む間もなく、私はすぐその決断を行動に移しました。数日後、当時日本でお金を稼げる唯一の仕事であったにも関わらず、荷物の積み下ろしの仕事を辞めることにしました。自分を追い込んだ状態に持って行かないと、日本語をもっと勉強して、日本語を使える別の仕事を見つけようとすることができないと思ったからです。

私が目指していた仕事は、日本のレストランのキッチンやホールの仕事でした。近年、人材不足のためか、日本語があまり得意ではない人も採用するレストランも少なくありませんが、私が来たばかりの頃は、レストランで働くにはかなり高い日本語でのコミュニケーション能力を求められるのが一般的でした。なので、レストランでのアルバイトを探してみようと決めたとき、私は長期戦になる覚悟を持って挑みました。求人を探して何度も面接をした結果、恵比寿駅の近くにあるレストランに受かりました。その時の私は日本語を頑張って学ぼうとしたものの、面接ではほとんど何も言えず、店長さんが何を質問しても笑顔でしか反応できませんでした。アルバイトを始めて店長さんと仲良くなった後、店長さんは自分でもなぜ、全く質問に答えない君を採用したのか分からないと冗談半分に言いました。(私の笑顔がとても明るかったからでしょうか^^)

店長さんをはじめ、お店のスタッフの皆さんもとても親切で、分からないことがあれば少しずつ教えてくれました。お店の仕事だけでなく、普段の生活や学校の勉強でも、新しい言葉や分からないことがある時には、皆さんに聞けば納得するまで丁寧に教えてくれました。お店の皆さんのおかげで私の日本語はどんどん上達し、わずか数か月後にはJLPT N2に合格できました。


日本語があまり分からない状態でレストランのアルバイトに挑戦

大切な2人との出会い

わずか 1 年で N2 に合格したことで、自信がつき、大学入学への決意を強めました。語学学校の担任の先生は、入学当初から私に付き添ってサポートしてくれ、私の性格をよく理解してくれていたので、私がサービス業に向いていると思い、西武文理大学のサービス経営学部への入学を勧めてくれました。 

入学試験でいい点数を取れたおかげで、私はその大学に合格し、授業料も50%免除される奨学金を受けることができました。大学が埼玉県にあるので、大学入学後は通学しやすいように東京から引っ越しましたが、アルバイト先のお店への愛着があったので、引っ越した後も埼玉から東京に通って、レストランでの仕事を続けました。

語学学校に通っていた頃からコロナが流行るまで、約4年近くレストランで働いていました。 アルバイトとして働いた4年間で学んだこと、得たものはすべて私にとってとても貴重なものです。

時給が平均に比べてかなり高いため、毎月安定した収入をもらったおかげで、私もずっと安心して勉強ができました。そして、日本語を学びコミュニケーションも取れる素晴らしい環境であり、私の中に日本の「おもてなし」の精神を育ててくれました。ここで身につけたものが今の仕事に大いに役立ちます。

レストランを辞めた後、生活費を稼ぐために家のすぐ近くのコンビ二でアルバイトを始めました。これは、私が後に日本のお父さん、お母さんと呼ぶことになる2人の日本人に出会う機会でもありました。

料理に関するいろいろなアルバイトを経験

私が働いていたコンビ二には、若い従業員たちから鬼のように怖いと言われている、非常に気難しい初老の女性スタッフがいました。彼女と同じシフトで働くことになった人はみんなとても怖がっていました。なぜなら、丁寧に仕事をしなければ、すぐに彼女に叱られるからです。しかし、私はとても几帳面な性格で、自分の責任として与えられた仕事を必ず完璧にこなすので、彼女と同じシフトで働くことになっても全く気にしませんでした。何回か一緒に働いていたことがありますが、一回も怒られたことがありませんでした。むしろ、毎回一緒に働いた時、私の細やかな仕事ぶりを見て、気に入ってくれたようで、よく話しかけてくれるようになりました。でも、私たち2人が本当に仲良くなったのは、2021年9月に大きな台風を一緒に乗り越えた時でした。


関東在住の皆さんなら、2021年9月に大きな台風が来て、東京近郊の多くの場所が浸水したことを覚えているでしょう。私が住んでいた部屋もその日の台風で浸水しました。家の床が水で溢れたとき、私は1人だったのでとても怖かったです。外は窓や壁が揺れるほどの風が強く吹いていました。その時、その同僚のおばさんから電話がかかってきて、「家は大丈夫か?」と尋ねてくれました。とても怖かったと話したら、自分の家に避難することを提案してくれました。その日以来、私とおばさんとおばさんのご主人との関係は親密になり、時間があるときはよく2人と一緒に食事に行ったり、飲みに行ったりしました。2人とも中年ですが子供はおらず、家には自分たちと犬4匹しかいないので、私を自分の子供みたいに面倒を見てくれるし、私もおふたりを自分の親のように思っています。


私が大学卒業を間近に控えた頃、おじさんは仙台(お2人の故郷)への転勤が決まりました。おふたりから私は大学卒業後に、仙台へ引っ越すことを提案してもらいました。仙台はおふたりの故郷なので繋がりが多く、なんとかすれば私が就職できる職場を見つけてあげることができると言ってくれました。そのため大学4年生になって、周りのみんなは毎日就職活動で忙しかったのに、私は相変わらず何の不安も感じずに過ごしていました。卒業したら仙台に行って、おばさんとおじさんが紹介してくれる会社で働けると思い込んでいたからです。

大学卒業

大学卒業

しかし、どの企業からもまだ正式な内定をもらっていなかった私を、大学の先生はいつまでも黙って見ていることはできませんでした。 少なくとも 1〜 2 社ぐらい面接を受けてくださいと言われました。不採用でもいいが、とりあえず就活を体験しなさいと。そして、万が一どこにも就職できず、在留期限が切れそうになった時、就職活動するための特定活動ビザを申請することになりますが、その時は頑張って面接を受けていたという何らかの証明を提出しないといけません。そんな時、友人から、在日ベトナム人向けのビザ申請サービスを提供する会社の求人情報をもらいました。先生にも言われたしとりあえず面接を受けてみようかと、本当に安易な気持ちで面接に臨んでいましたが、思いがけず内定をいただくことになりました。


内定通知を受け取ったとき、私はそれを受けるべきか、それとも断るべきか、非常に悩んでいました。面接に落ちてしまったら、何の未練もなくそのまま仙台に行けばよかったのですが、内定を辞退してしまうことはなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになります。そして、その悩みをベトナムの両親に相談することにしました。両親が仙台という地名を聞くと、すぐに 2011 年の地震と津波のことを思い出し、強く私を止めました。両親からは「もう何年間もずっと東京に住んでいるから、卒業後もとりあえず東京で仕事をしてみたら。しばらくして合わなければ、その時に仙台に行っても遅くないでしょう」と言われました。確かに両親の言う通りだと思い、私は東京に残り、内定をいただいた会社に入社することにしました。

新社会人の経験

内定をいただいた会社のスタッフはほとんどがベトナム人なので、日本で活動している会社でありながら、ベトナムの特徴が色濃く残る職場環境です。日本のレストランや会社では仕事をこなすだけで済むのに対し、ベトナム人が多く働いている会社では仕事のみならず、同僚と上司との親密な関係を保つことも非常に大事です。働き方にもさらなる柔軟性が求められます。これまで日本のサービス業でアルバイトをしていた経験と、このような特殊な環境で働く経験があったからこそ、私は日本人のように丁寧な仕事をすることができ、ベトナム人特有の柔軟性がある働き方を身につけることができました。


また、会社で働いている間にマネジメントスキルについても多く学び、リーダー向けのコーチングクラスを受講するチャンスもいただきました。その後、自分と会社の方向性で合わない点があったため、同業他社への転職を決意しました。最初の会社で実務経験があったので、すぐに転職先の会社の仕事に慣れて、今も毎日頑張って仕事をしています。

ベトナム人向けにビザサポートをする仕事

日本食レストラン開店

2社目の仕事が軌道に乗り始めた頃、以前通っていた恵比寿のレストランでシェフをしていた親友と力を合わせてレストランをオープンすることにしました。私はサービスに関心を持っており、ビジネスビザの申請手続きもよく理解していて、日本食のレストランで長年働いた経験があります。親友は料理のスキルを持っているので、協力してお店をオープンすることに決めました。


私たちはベトナム人ですが、ベトナム料理のレストランではなく、日本人顧客をターゲットにした日本食レストランをオープンすることにしました。市場調査をした結果、この市場の方がより大きく、より安定した顧客数を確保できると判断したからです。さらに、私たちが今まで外食業界で経験したのも、日本料理なので、それを活かしたお店にした方が確実だと思いました。


レストランの場所探しからお店のレイアウト、メニューの検討まで、丁寧にリサーチし、2人で話し合って決めました。レストランのメニューは、2人で厳選し、レシピを決めて、作ってから何度も試食してお客さんの好みに合わせて調整しました。4年間お店で働いて培った経験が今、最大限に発揮されるチャンスです。


お店がオープンして4ヶ月経ちましたが、顧客数は比較的安定しており、多くの顧客が常連になってくれました。外食産業で長年働いてきた経験から、2人の店主がベトナム人の日本料理店でも日本人客を引きつける秘訣を学びました。それは「料理は美味しく、サービスも良い」ということです。


日本レストラン「ゴン屋」開店

ここでいう良いサービスとは、レストランに来たお客さんの体験を常に大切にし、一見小さなことにも注意を払うことを意味します。例えば、店内がどんなに混雑していても、できる限りお客様に目を配り、お客様がうっかり床に箸を落としてしまった時には、お客さんがお願いする前に新しいお箸をすぐに持っていける姿勢を心がけているのです。お客さんがテーブルに座るときは、すでにおしぼりが用意してある状態。店内のテーブル、椅子、床は常に清潔に保ち、トイレは常に清潔で香りがよい状態にしておかなければなりません。店内が混雑していないときは、積極的にお客さんに声をかけてお好みの料理を把握し、次回ご来店の際にはすぐに提供できるように心がけています。これらはすべて、私がバイトとして働いたり、会社で働いたり、そしてもちろん学校で学んだ知識を組み合わせて、日本のサービスについて経験し学んだことです。


まだ何もかもが始まったばかりで、会社とお店の掛け持ちで毎日がとても忙しいのですが、全く疲れを感じず、むしろいつもとてもワクワクしています。レストランや会社での仕事を通して、これから出会うお客様のこと、素晴らしい経験をさせていただけることを考えるだけで、本当に毎日が幸せな気持ちになります。 それは8年前に、日本行きの飛行機に乗るのを待っていたときの高揚感とまったく同じです。


会社やお店で毎日忙しくても、いつも元気いっぱいな私の元気の秘訣の1つが、大学を卒業してから飼い始めた子犬のミソです。柴犬のミソは毎日散歩に連れていかなければいけないので、忙しくてもミソのおかげで毎日1〜2時間散歩に出て、新鮮な空気を吸うことができます。どんなに仕事が辛くても、家に帰ってミソを見ると、すべての疲れを忘れてしまいます。

愛犬ミソちゃんと

作ったケーキをSNSに投稿するのが好きで、インタラクションが多い

現在の自宅

メッセージ

 将来への期待と希望を胸に、日本へ留学した日からちょうど8年が経ちました。嬉しいことに、8年経った今でも、日本での自分のこれからにワクワクする気持ちは全く変わりません。


私は毎日仕事にワクワクしています。なぜなら、私は仕事を単にお金を稼ぐ手段として考えず、他の人に価値を与える手段だと考えているからです。他の人に価値を与えることができると、またいつかその2倍の価値を受け取ることができると信じています。


これから日本に来る人も、来たばかりの人も、初めて来た日のワクワクな気持ちをいつまでも心に留めて、常に自分の学校や職場から学べる良い点を見つけられるよう心がけましょう。


いつも自分自身で目標を設定し、その目標に向かって最善を尽くしましょう。私たちが達成できていないことは多くの場合、私たちに能力がないからではなく、私たち自身の考え方によって制限されているだけです。最初から自分には無理だと思ってしまうと、すべてがとても難しくなってしまいます。でも、絶対にできると思って挑戦してみると、人生はその目標を達成する方向に進んでいくはずです。


東京3/2024